合掌


 昨日の記事にちょっとだけ書いたが、部活の先輩がなくなった。
 学生時代の部活のってことじゃなく、現在やっている部活の先輩。



 昨年オーストリアにも一緒に行って踊った方で、一年も経たないうちにこんなことになってしまい、聞いたときには全然実感わかず・・・・・昨日が告別式でやりきれない思いにかられました。


 部活の仲間は同じ釜の飯を食った仲というイメージがあって、一人でも欠けてしまうのは、何かが足りないっていう気持ちになります。それは、すごくその人が上手とか、存在感があるとかいうんじゃなくても、いつもいる人がいないっていうだけで、今日は人が足りないっていう感じがあるのよね。この年になって、ああいうことをやっているっていうのは、それだけでエネルギーもそれぞれのオーラも普通の人(?)より強いのかもしれない。たしかに気合とか根性とか強い重いとかがないと、続かないことではあります。
 先日亡くなった先輩は、メンバーをいくつのグループにわけても、絶対最上級クラスに入るだろうと思える方で、でも、そういう方なのに、私が超々新人♪って感じの頃からよく声をかけてくださって、ありがたいな〜(ToT)なんて思っていたので、特別にベタベタ親しかったわけでもないし、強い思い出があるわけではないのだが、療養期間中の不在の存在感ってのは大きかったのよねぇ。


 上手に表現できないが、そこそこ長く籍を置いてる団体というか組織でも、そこに参加している人の葬儀なんてそうそう出るもんじゃないと思うし、特にこの部活はどっちかってぇと健康とか元気とかいうイメージがあるので、この仲間の訃報に接するなんてことはないと思っていた・・というか、葬儀がないとかいうことを意識することが全くないくらい、そういうものからもっとも遠い存在であったのに・・・いや、あったので?かな・・・ともかく、部活仲間の葬儀に自分が参列していることが、なんかちょっと不思議な感じではありました。


 これ親しい方のメールにも書いたけど、人は絶対いつか死ぬし、自分より年上の方がなくなるのは道理からいえばありうることだと思います。それに、この世には存在しなくなってしまったけれど、また次の世界に意識はつながっているんじゃないかみたいなことを漠然とは感じていて、運命とか宿命とかそうこともあるかなとも思わないじゃないんです。それでもやはり、天寿を全うしてないんじゃないのか?と感じる死に接するのは、なんともせつなく悲しく、やりきれない気持ちになります。


 だらだら書いていてなんですが、ああいう席に行ってつらいなと思うのは、遺族は残された関係者の方のお気持ちを感じるときで、昨日もご主人様のご様子を拝見していると、涙が止まりませんでした。先生も教え子が先に逝ってしまうことの傷みを全身に漂わせている感じで、つらかったです。私も、広い世界の中ではとるにたらない存在かもしれないけど、少なくともまだ自分を必要としていると思われる家族や友人(いるかな?)のことを思うと、自分を大事にして、天寿を全うして、「大往生だったね」と笑って見送ってもらえるような終わり方をしなくちゃねと思いました。自分を犠牲にして人に尽くすことばかりがよいわけではなく、自分の面倒は自分でみて、周囲によけいな心労かけないようにしないとなと思いました。


 でもね、そうもいかないこともありますね。自分でのぞんでなくても、不摂生してなくても、抗しきれない力で連れて行かれてしまうことはありますね。そうなったときに、気持ちよく逝けるよう、自分の気持ちを真正面から見据えて、正直に生きなくちゃということも再認識できたかな。いつか取り戻せばいいやというのは後悔のもとかなと思ったりしました。


 ご冥福をお祈りいたします。