話は二転三転

okami092009-03-15



 コップにガラス絵の具で柄を入れてみた。


 ただしこれは、一ヶ月ほど前に描いてたもの。作品の善し悪しはおいといて(論外って感じだし(^^;))、作業自体は簡単で楽しい。ラインストーン貼りとか、その作品の企画とか、衣装なんたらとか、PTAの残務処理とか、部活役員の準備とか、家事とか、うんちゃんの手伝いクッキー作りとか、やることがいっぱいで、一分も時間がないって感じ(感じなだけで実際はある)だとよけいなことをしたくなり、ガラス絵の具でまた何か描いてみたくなったが、はじめると今日一日それで終ってしまうので、できの悪い作品画像を見て、これは使えんといいきかせている次第。




 もっと時間を有効に使うか、さぼらずに次々やっていかないといまやってる全てのことをこなすのは無理で、実際、いま睡眠時間を削り傾向と家事さぼり傾向。今日もたまった家事を片付けるのに、たぶん午前中いっぱいかかる。


 PTAは3月いっぱいで終るので、そこは差し引いて考えても、5月くらいまではなんだかんだと衣装は続くし、ラインストーンのほう(※)は会社が手を引かない限り、作品と教室の企画を休みなく考え実行していくことになるし、部活はこれまで通り続くわけで、基本的な生活パターンというか生活に対するスタンスというか認識をがらっとかえるか、寝なくても耐えられる絶対的体力と根性を身につけるか、何かをあきらめる=やめる かしないと、何か大きなしわ寄せが来るんじゃないかという不安が少々。


 一個目が一番有効と思われるが、一番難しそうで、二つ目はありえないし、三番目が現実的ではあるが、何もやめたくない。


 
 あら、あたしって欲張り?



 「全部うまくいかせようなんて、無理だからね」って、ある人が私の大事なお友達にいったとかで、いろんな事情があるのをわかっていてその出来事を聞くと、ひでえなって思うものの、そのある人も私にとっては、「細かい事情とか気持ちとか知らないくせに、そんなこといってんゃじゃぁぁねえよ」みたいなことをいえるような相手ではなく、「ひどいね」て言うくらいしか対応できなかった事件があったが、この場合この事件自体がメインではなく、単なる前置きであるのであって、前置きにしてはヘビーーな話でごねん・・・・って誰にいってる。あはは


 ともかく、「全てうまくいくなんてありえない」っていう見方は一般的にあって、わたしとてやりたいことを全部やってそれが全てうまく回るなんて、ありえないっていうか、相当な覚悟が必要ってのは認識していて、どれを優先させるべきか、優先させたいかを考えて洗濯していくわけで、今日もたまった洗濯物を干すにはいい天気なんでこんなことしてる場合じゃ・・・って、ボケが長いわーーーーー>自分。がはは 誤変換でここまでぼけるあたし・・・・時間ないんじゃねえのかよ>自分。

 ともかく・・・・って二回目だし・・・・ともかく、優先順位とか自分の気持ちを考えて選択してくわけで、その中であきらめることも出てくる・・・ってのが、私の人生観?であったのだが、うちの夫は、そういうことを相談すると「全部やっちゃえばいいんだよ。で、できる方法を考える」ってよくいうのだ。いうのだ・・・って。



 私の中にはなかった発送。宅配便が普及してから・・ってもうボケはこれくらいで・・・発想よ。


 今回は、不安とかいいつつ、なんとなく「やってやる」的気持ちがつよく、言ってるほど苦悩はしていないので、まだ相談してないが、そこには、まずは全部やってみるっていう夫のアドバイスが私の中でもスタンダードになりつつあるからかもしれない。


 自信があるというと、何様とか、えらそうとか、ナルシストとか、言うほどかよみたいなマイナスの見方をする場合も多いが、「自分を信じる」っていうのが「自信」であると捉えれば、今の私には、根拠はないが自信みたいなものがある気がする。


 へへん・・・っていう感じの、威張ってるイメージの、私が一番とか私がすごいとか偉いとかいう意味ではなく、「成せば成る」的、やろうとする気持ちが成功につながるっていうことを信じる力みたいなものがある気がする。


 いつのころからでしょう。そのとき苦しかったり、大変だったりして、不安とか心配でいっぱいなときにも、「私は大丈夫」っていう新年あけましておめでとう・・・・がはは・・・・いいところでかむな!>あたし。

 
 信念ね、そういうのが奥のほうにあって、前向きに対処できるようになってきてる気がします。これが大人になるってこと?


 わかんないけどね。またくじけることもあると思うけどね。


 ねたみとか、ひがみとかからくる、他人に対しての攻撃的態度、激しい表現ではなくても、ちくちく言う意地悪とか、言葉の端々に出てくる棘とか、そういうのの根源は、何かに対する恐怖と不安と孤独みたいなもので、それって、自分はOKって思えてないことからきてる気がする。特に目立った幸運みたいなものがなくても、いつも穏やかで一緒にいると気持ちが柔らかくなる人っていうのは、心の奥底で自分を認めて、受け入れて、私はこれでOK、私は大丈夫、いろんなことがあって環境や周囲の人の反応がかわっても、私は私、外圧によって自分自身の価値が変わるものではないみたいなことを無意識ながらわかっているんだろうなと思う。


 大人になると、いろんなことがあって、なかなかそういう風にばかりもいかないけれど、大事なのは何が起こっているか、何ができるか、どこを認められるかではなく、常識的は範囲で社会とのバランスの中で、自分が自分を認めるってことだな・・・・・って、たぶん何度も書いてるな。


 いうほどできてるわけじゃないんだが・・・・・(^^;)できてない部分の方が断然多いのであるが・・・・外圧に一切影響を受けない自分であるって、相当難しいし。それでも、いろんな人の、心の中にある根源的な自己否定みたいなものをクリアできれば、きっともっと皆が楽に生きられる気がします。

 

 それとあれだね、自分の周りの人に対しては、その人のいいところとか、好きなところとかを積極的に具体的に言葉にして伝えることは大事だね。いまさらいうようなことでもないけどね。普通のことなんだけどね。「●●ちゃん綺麗ねぇぇ」っていうと、大概は「またまた〜」とか言ってしまうんであるが、それでもめげずに言ってみるんだね。でも、「いまさらぼけたこというんじゃないわよ、百年前から知ってるよ」って言われたら、張り倒すのかな?がはは たぶん、そんな奴とは友だちにならない・・・って、認めてないじゃん! どうしても受け入れられない相手の場合、どうすればいいでしょう?先生。先生って誰よ。がははっははっは 今の私の中で「先生」といえば部活関係の先生であるんだが、ここでいう「先生」は一般的な名称ですので・・・って誰にことわってる?わはっはははっは


 

 さ、動こう。


※ 皆様ご承知の通り、一般的に、ラインストーンを貼り貼りするのを デコ って言っていて、今回かかわるビーズ屋さんも、デコっていうのを前面に具体的名称として出しているが、どーーーもこの「デコ」って言葉になじめないっていうか、正直安っぽくていやなのよ。だから、デコレーションとか言ってみたりするんであるが、何かいい言葉は内科と外科・・・・じゃなくて、ないかと模索中。ラインストーン・デコレーション?長いな。